不十分な器



 新宿駅から家路に向かう道すがら、考えていたことがある。わたしは、普段良い聞き手なんだろうかってこと。最近、自分の記憶力が衰えていると感じていて、自分のコミュニケーションのあり方に問題があるんじゃないかと思いあたった。実を言うと、人と話したことをまったく覚えていないことに気づいてしまったから。自分が相手に対しどんなことを話したのかも忘れてしまっている。頭の中に残らず、どこかに消えてしまっている。

 容器に例えるとすれば、わたしの聞く耳はとても浅い桶のようなもの。浅いから、すぐに溢れてしまってrecipientとしては十分ではないのかもしれない、とそう思った。でも、そうだとしたら、もともとの素質では変えられないんじゃない?どうやったらもっと相手の言葉をしっかりと受け止められるんだろうか、なにか解決策はないのか。考えてはみたけれど、答えらしき案は思いつかなかった。

 そして夜、好きな 『暮らしの手帖』をペラペラめくっていたら、気になる言葉が見つかった。伊藤守さんの「ごきげんでいたいから」という文の中に、こうあった。



喫茶店で、人が会話しているのをちょっと離れた所から観察してみると、一方が話しているとき、もう一方は、頷いたり相槌を打ったりしながら、どうも視線が定まらず、盛んにコーヒーをスプーンでかき回していたりします 。

こういう人は、聞いているふりをしながら、次に自分が何を言うか考えているのです。そして、相手が話し終えると、間髪を入れずに話し始めます。
『暮らしの手帖』12-1号 第85号通巻464号



 なるほどと、思い当たる節があった。わたしは、自分の話をぺらぺら積極的にしようとはあまり思ってはいないけれど、なにか自分に話題を振られたらすぐに答えられるようにだとか、相手の話に対しどう答えたらいいのかを常に考えてしまう癖がある。すぐに返答できないとダメだと思って。そうすると、相手の話を聞いているつもりでも、自分が何を話すかに気を取られていて、大事なことを聞きそびれたり、気になった事を手放さないようにしていたら、他の情報が滑り落ちて耳にはいってこなかったりする。講演会やら、授業やらでもそうだった。なにか質問しなくちゃとか、場を繋げなくちゃとか、そういうことに気を取られて、物事の核からどんどん遠ざかる。そして、後からそういえばと気になることに気づいたり、聞きそびれていることがあったと気づく。

 そうなると、なにもかもが中途半端になってよろしくない。話をするのが下手だからそこ、適切な会話をしなきゃとか、スムーズに会話しなきゃ、相手を楽しませなきゃ、ちゃんと質問して会話を広げなきゃとか思い込んでしまうけれど、大事なのはほんまはそこではないはずで。だからこそ、今後は相手の話にちゃんと耳を傾けようと持った。 自分が何を返答するかは、聞き終わってから考えたらいい。心配し過ぎるのをやめたい。そう思ったら、もう少し人の話を聞けるような気がしてくる。わたし自身のrecipientとしての器はそれほど深くはないかもしれないけれど、あれやこれや詰め込み過ぎてもどうぜ溢れるだけなのだから、せめてもう少し上手に受け止める方法を身につけたら、ほんの少し楽になるんちゃうかなと思う。

(結局のところ、そういうところがわたしがコミュ障たる所以なのだなと変なところで納得する。)


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