ねんど遊び


 影で、小さな失敗をいくつもしている。だけど、反省はせど、死ぬほど落ち込むことはなくなってきた。人前で、嫌な自分や、だめな自分が出せるようになってきた、ということなのかな。恥を捨てたんだな、と言われたら否定しきれないけれど、言い換えれば多分、ようやく自分を認められるようになってきたのだろう。二十数年間生きてきたけれど、ようやく、といった感じだろうか。それとも、これが普通なのかな。


 卒論の勉強をはじめてから、まわりが見えなくなっている。と、そんな気がしている。だけど、それもある程度必要なことで。私は、もっと卒論と向き合わなくてはいけない。やるなら、きちんとしたものをつくる。それが私の目標。この卒業研究には、ある意味では、命がかかっている。人生がかかっている。大げさになるけれど、気持ちとしてはそれくらい大切。失敗はしたくないけれど、するかもしれない。論文ではなくて、エッセイになってしまうかもしれない。そういった怖さはあるけれど、今まで胸の中でわだかまり続けた事柄を、きちんと整理していかなくちゃいけないのだと思う。
 机の上にも、横にも、山ほどの、本が並んでいる。ここから、言葉が、一本の糸みたく、どんどん連なって、私の手元にぐるぐると、たまって、すこし留まって、シャーペンの先から、するすると抜け出すみたいに、しみ出すみたいに、紙へと、その黒い痕をつけることが、残すことが、できればいいのにね。そんなに、スムーズにはいかないとしても。

 そう、雑誌『新潮』の七月号に、大江麻衣の詩が掲載されていた。「夜の水」をtwitter上で読んでから、とても気になっていた。大江麻衣の『道の絵』に新しい作品を二編加え、タイトルを『昭和以降に恋愛はない』に変更したようだ。私はどちらのタイトルも好きだけれど、後者のほうが、たしかに、インパクトはある。
 私はどうしても、「夜の水」が好きで、好きで、なんども読んでしまう。日記帳には、自分で書き写したし、プリントアウトしたものを貼っている始末。好きにもほどがある。なんでなんだろう、とは思う。だけど、深く考える気、には、なかなかなれなくて。強いて言うなら、アダムが好きなんだろう、海鼠の描写が好きなんだろう。そして、人はみんな海鼠から生まれた、というのに共感するから。かのヴィーナスでさえ、ウラヌスのペニスの泡から生まれたんだから、それでもいいじゃないの、と思う。これは余談だけれど。
 創世物語は、わりと好きだ。天地創造の章と、アダムとイヴの章。人が土から生まれた、と聖書には書いてあって、それを想像するのは楽しい。最初から、土くれに性別はなかった。だけど、最初の土くれから、もうひとつの個体が作られたとき、二つを区別するために、性別が加わった。アダムは男性に、イヴは女性に。その際、創造主ヤハウェは、こねこねしたアダムの肉体の、その股間のあたりを、ふにふにと、楽しげにのばしたのだろう。子どもが、ねんど遊びをするみたく。イヴの股間には、指で穴を作ったんだろう。ぶすぶすとね。子どもが、ねんど遊びをするみたいに。だから、アダムとイヴの誕生を想像するのは楽しい。大江麻衣の詩から、こんなことを連想して、想像して、私は遊んでいた。もしかしたら、的外れな想像の連鎖かもしれないけれど、これでもいいかな、と思ったり、思わなかったりする。
 詩、の読み方を、私はよく知らない。だけど、詩も面白いのかもしれないな、と最近思う。

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