悪夢のあとの平穏、静かなる日常

 今朝見た夢が、まだ頭の中で震えている。ずっとずっと、忘れられないで記憶の中に残り続けるような、身が凍てつくような、身体的な恐怖感だ。今の自分が、何を恐れているのか、何を回避したいのか、何を優先したいのか、そういったことが嫌というほどわかった。だけど、それを優先することは、ある意味で、今まで大事にしてきたものとの決別である。少なくとも、私の認識の上ではそのようになっている。その認識が、私の中に深く根をおろしているのだろう。
 だけれども、どちらを選択しても正しくない選択肢というものがある。それを選択肢と呼んでいいのかはわからない。そもそも、選ばないということも、そしてどちらとも選ぶ、ということも選択できる場面でようやく、人は自由意志で選択できるのではないかしら。これは、卒論をやっていくうちに思い当たったこと。選択肢があるということは、幸福である。

 言語の問題が、これほどまで深く私自身を蝕み続けていたのを、卒論をやっていくうちに認識した。それまでは、得体の知れない「何か」がまとわりつくようだったけれども、それが言語にまつわる苦悩だと気づいたとき、不思議な気持ちになったものだった。一時期感じた、両親への憎しみのような感情は、あっという間に薄れた。そもそも、私は両親を恨んでいたわけではないのだから、それが薄れるのは当たり前だ。苦悩の理由が見えない不安、それに対するフラストレイションが、一時、両親に向いてしまっただけのことだったのだろう。だけど、そこで感情を少しだけ逃がすことができたのは、ラッキーだったのかもしれない。はち切れんばかりの感情は危険だった。命の危険があった。いずれにせよ、今日もこのように生きている。

 苦悩している。だけど、それでも日々は過ぎていく。私は、相変わらず日々迷いながら、手元にあるものごとを、少しずつ消化している。やらなくちゃいけないこと、いまできること、その区別がなかなかつかない。迷って、立ち止まりそうになるけれども、それでも「生きる」ということが、私の背中をぐいぐい押していく。振り返る暇も与えられない。だから、進むしかない。
 でも、ひとつだけいうとすれば、今の私は幸福である。「先」のことは、真面目に考えなくてはいけないことだけれど、それよりも「今」という一瞬を一生懸命生きよう、と、そういう心持ちでいられることは幸福である。無計画、無責任、といわれるかもしれない。実際そうなのだ。だけれど、このように生きるのは楽だ。今まで、過ぎたこと、先のことにとらわれすぎていたから、少しくらいの休憩は罪にはならないだろう…と、自分自身に言い聞かせる、十一月の寒空の下。夜の散歩の後に、エスプレッソティーなるものを飲む。隣には、「今」を楽しむことを教えてくれたつれあいが、静かにノートに向かっている。残念ながら、星が見えない夜だけれど、しんしんと降る雪のように静かに、時は過ぎていく。今夜は、良い夢をみたい。

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