泣き虫の喋らない舌



 8月26日に、舌の一部を切除する手術を行った。手術の前からおかしな頭痛と耳痛が数日間続いていて、予定通りに手術ができるか不安だったけれど、無事に施術は行われた。


 舌を引っ張られ、舌の左裏を何度も麻酔の針が刺した。ぬぷっとした感じで、舌全体に痛みが広がっていく。麻酔が1番痛いですからね、と先生の声が降ってくる。ふと、舌の裏にある、太い血管のことを考える。舌の奥に針が刺さる感じがして、思わず涙が出た。

 診察台が起こされて、口をゆすぐように言われた。舌がカルメ焼きみたく膨張するような違和感が口の中に広がった。ほんの一瞬のことなのに、数センチも舌が分厚くなったような感じだった。再度診察台が倒された。すぐに切除するらしい。え、もう?と心の準備をする間もなかった。


 再度、看護師さんがわたしの舌を引っ張る。目をつぶっているけれど、先生の腕がしきりに動いているのがまぶた越しに見える。麻酔はもう十分に効いているから、痛みは一切感じない。ただ、口の中に液体がとめどなく溢れだすのはわかった。それが唾液じゃなくて血液だと気づくまでには少し時間がかかったけれど。

 唾液を吸引する器具が、ひたすらずるずると音をたてているのに、喉の奥まで血液が流れてくる。あの太い血管を切ったら、そりゃたくさん出血するだろうな、と妙に納得している自分がいた。血液で喉の奥が苦しくなってくる。血は飲んじゃって大丈夫ですよ、と先生が言う。今急いで縫ってるからね、とも。そうか、もう舌は切り取られたあとなのか、とぼんやりと思った途端、喉の奥に吸引器具が差し込まれて、咄嗟にえずいてしまった。口をハンカチで拭ったら、やっぱり血がついていた。


 手術自体は30分もかからなかった。先生は笑顔で、無事に切除できましたよと、試験管の中の透明な液体にたゆたう赤い肉片を見せてくれた。無邪気なもんで、試験管をフリフリ揺らしている。ほんの数分まで、わたしの体の一部だったものだ。次は顕微鏡で切除した肉片を観察して、異形成の病変なのか否かを確認するのだという。結果は1週間後にわかる。そのときに抜糸もしようということになった。消毒のために、翌日再度病院に来ないといけないこともわかった。

 とんとん拍子にいろんなことが進んでいく。自分のことなのに、まったくの他人事みたい。目の前の景色がものすごいスピードで変わっている。ベルトコンベアに乗せられて、考える間もなく運ばれていくように。診察室を出て、会計を終えてもすぐに動くことができなくて、病院の隅のベンチでしばらく放心してしまった。左の頭頂部と左耳がずきずき脈打つように痛み出して、ああ、と途方にくれた。術後の説明用紙で顔を隠して、こっそりと泣いた。


 病院を出ると、湿り気のある風が吹いていた。新宿はいつも風が強い。風に背中を押されながら、とぼとぼと歩いた。ガラスに映った自分の姿をみて、作り終えたばかりのワンピースを着ていたことを思い出す。袖と襟にスモッキング刺繍を施した大作だ。手術の怖さを紛らわすために着ていたんだった。はたして、効果はあったんだろうか。裾が風に巻かれて、足にからまる。わたしの気持ちみたいだ。複雑に、乾いた舌先にからまって、うまく言葉にできない。

 カフェでゆっくり過ごす予定も、福岡から出張に来ていた友人との約束もキャンセルして家に帰る。麻酔の効果が薄れてくるにしたがって、腫れ上がった舌が脈打つように痛い。頭も耳も舌もひどく痛い。もしわたしが動物だったら、とっくに淘汰されて死んでいただろう。自分は文明に生かされている。新宿を歩きながら、電車に乗りながら、そして家でベッドに横になっても、なかなか涙は止まらなかった。なんだか最近泣いてばかりいる。いや、最近、じゃないか。いつもすぐ泣いている。幸せだと思っているときだって、油断したらすぐに泣くんだから。わたしは饒舌じゃないから、その分たくさん目が喋るのかもしれない。でも、こんなのダダ漏れだ。泣き虫の喋らない舌に、異常な病変ができたのは、やっぱり皮肉だと思う。

 来週の抜糸と、生検の結果を聞くのが怖い自分がいる。でも、きっと、また他人事みたいに淡々と、試験管の中でたゆたっていた舌の肉片みたいにゆらゆらと、流れに任せて病院にいくんだろう。でもその前に、去ることのないこの頭痛と耳痛をなんとかしないと…(今週4回も病院にいくなんて、誰が予想してた?自分でも甚だ恥ずかしいわ。)

 33になる前の週は、なんとも痛くて、慌ただしい。


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